生い立ち

第二次世界大戦末期の旧居留地

昭和10年代の旧居留地
▲昭和10年代の旧居留地風景(仲町通り)

 戦前から旧居留地には高層ビルが建ち並び、神戸の業務中心地を形成していた。ここで営業する企業は「居留地のビル」に居るというだけで金融関係をはじめ対外的にも信用があり、働く人々もプライドを持っていた。全国民が丸坊主に国民服、モンペ着用の時代であったが、ここのサラリーマンは髪を7・3に分け、背広にネクタイ、そしてゲートルに短靴、帽子をかぶるといった、今からみれば異様なスタイルで、女子はスラックスにブラウス姿、あれは居留地に勤める人と一目でわかるスタイルを固持していた。ただ、社員は老人の部課長と女子社員のみで、中間層は兵隊として徴用されていた。

 昭和20年6月10日、早朝よりB29数百機による大空襲を受ける。幸い爆弾の投下がなかったため、ビルの全壊は免れたが、無数の焼夷弾が窓や屋根から飛び込み、どの建物の窓からも炎がチョロチョロと舌を出していた。
7月に入ると紀州沖の空母からグラマン艦載機が低空で侵入するようになり、空襲警報の鳴る度にビルの奥へ避難を繰り返し、この時の機銃掃射の弾痕跡が今でも商船ビルの南側に無数に残っている。

終戦直後の旧居留地と「国際地区共助会」

終戦直後の旧居留地
▲終戦直後の旧居留地

 昭和20年8月15日の終戦から暫くして、米海兵隊の神戸駐留が決まり、被災したビルを改造、大丸が駐留軍向けの物品販売店「PX」となったのをはじめ、憲兵本部や軍事裁判所など多くのビルが軍施設として徴用される。昭和27年4月の全面返還まで、旧居留地の人々は米軍に混じって働き、接していた。
 そして、戦中にビルオーナーによって設立されていた自衛団組織を組み替え、会員30社程度の「国際地区共助会」という親睦団体を構成した。後にこれが母体となって、旧居留地連絡協議会にと発展する。
 その頃、当地区南東部の関電ビルや元アメリカ領事館周辺には、バラック建物がスラム街といえるほどにまで密集し、飲み屋をはじめ店もできて相当数の人々が生活していた。そこで、この時の当会の代表幹事が民生委員を兼ねていたこともあり、会の活動は福祉を中心としていた。

「都市景観形成地域」指定とまちづくり

 昭和45年に日本万国博が大阪で開かれるが、この頃より東京一極集中の傾向が強まり、多くの企業が本社機構を東京へ移した。神戸本社は本部となり、支店は出張所に格下げなど、旧居留地の弱体化と人の流出が始まる。手入れもなく汚れる一方のビルはガラ空き、空地にはぺんぺん草が生い茂る状況であった。

 しかし昭和50年代末ごろから、いわゆるレトロブームにのって、地区内に多く残されていた近代建築物と歴史的雰囲気が見直され、ブティックや飲食店が新しく立地するとともに、事務所も再び増えだした。

 そして昭和58年6月、当地区22haが神戸市都市景観条例に基づく「都市景観形成地域」に指定される。
 この指定にあたっては、都市景観審議会にも当会から委員を送り込むなど、地元参加を神戸市に申し入れるとともに、これを可能とするために、会員の増強や組織体制の強化を図り、また昭和58年3月、当会の名称を「旧居留地連絡協議会」と変更した。この結果、従来は近隣のお付合程度と受け取っていた会員も、お互いの利害関係も生じることから度々会合を重ね、討論する内に親しくなり、談笑するまでになっていった。会の本来の主旨である親睦を本当の意味で深めるとともに、協力してまちづくりを進めるという素地ができあがったといえる。

 そして昭和60年、景観形成市民団体として認定を受け、翌61年にはシンポジウム「旧居留地の昨日、今日、明日」と写真展を開催した。社内では部課長も会場の係員として、寒さに震え、知り合いの人々に冷やかされながらの1週間であった。そして昭和62年には「まちづくり功労賞」を建設大臣より受賞している。
 以後、定例的にさまざまなイベントを実施し、平成5年9月にアーバンリゾートフェア神戸'93の一環として開催した「旧居留地ハイカラフェスティバル」では、大正ロマンを主題に会員男女が当時の服装を着用してイベントを盛り上げた。多くの会員の休日を返上しての奮闘によって実現したものであった。
 一方、まちの将来を自らが築いていくために、平成元年、まちづくり推進委員会を設立し、翌2年「新たな発展に向けて/旧居留地のまちづくり」を会員の努力によって作成した。また平成6年には、地域計画プロジェクト委員会を発足させ、「歴史の流れを未来に引き継ぐ/神戸旧居留地・景観形成計画」を策定し、まちなみのあり方を提案している。

阪神・淡路大震災

阪神淡路大震災
▲阪神・淡路大震災による被害
居留地時代から唯一
残されていた15番館は全焼した

 平成7年1月17日、長い時間と多くの人々の努力によって築かれてきた美しい街が、数秒間で 廃虚と化し、その機能を失ってしまった。

 しかし、誰からともなく皆で立ち直ろうという声があがり、2月、当会臨時例会を大丸カーポートの寒風吹き晒しの場所で開いた。ライフラインの復旧のない中、ジーパンに防寒服という震災ルックでの集まりであった。そして4月総会で、復興のための活動方針が決まった。当会が平成6年に作成したまちづくり計画案に少し手を加えた神戸市から提示の「地区計画」を承認するとともに「復興計画」の案づくりが始まる。復興委員会も設置し、会員の鋭意努力と情熱によって計画書を作成、同年11月、神戸市長に提出すると同時に、委員会を復興推進委員会に改組した上で、すぐさまこのまちづくりガイドラインの作成に取り組んだ。阪神・淡路大震災による被害(居留地時代から唯一残されていた15番館は全壊した)当会からは数多くの先輩が去っていかれた。これら諸氏のボランティア精神と努力のお陰で薄汚れたぺんぺん草の生い茂ったまちが蘇り、全国から注目されている。旧居留地内で勤務したのを縁に、我々にはこの街を愛し、そして後世に引き継いでいく義務がある。

 震災から2年が経過した現在、委員会も従来にもどり、会員数も震災で退会した数を上回る新規会員が増え、110社になった。今後とも、異業種ではあっても全会員平等の立場で発言し、本来の目的である会員相互の親睦を図るとともに、旧居留地が神戸の中枢業務地としてますます発展するよう、積極的にまちづくりに取り組んでいきたい。

(資料提供:佐久間泰夫)